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01月19日×閉じる
1945年01月19日学園の創立者・松前重義が応召先のサイゴンから帰国
学園の創立者・松前重義は1944年7月18日に、熊本の陸軍西部第22部隊に二等兵として召集を受けた。松前は当時、天皇が直接任官する勅任官である運輸通信省通信院工務局長の任にあった。勅任官は召集が免除されており、その中での召集は異例の事態であり、松前が東条英機内閣の倒閣運動にかかわったことが原因ではないかとうわさされた。松前を載せた船団は同年8月に日本を出発。アメリカ軍の攻撃にさらされながらも、10月中旬に南方軍総司令部のあったフィリピン・マニラに到着した。現地では司令官の好意により、総司令部附となって参謀部で産業関係の相談役の任にあたった。戦況の悪化により司令部がフランス領インドシナのサイゴン(当時、現・ベトナム社会主義共和国ホーチミン)に移動した際には部隊に随行。12月20日に陸軍兵器学校(神奈川県相模原市)への転属と日本への帰国命令が届けられた。航空機での帰国中にも、何度もアメリカ軍の攻撃に遭遇したが、この日、奇跡的に東京・羽田空港に到着した。
